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認知バイアスに対するバイアス

nem0.90xem (2) 513 2 1

 

「これがこうなるのは○○バイアスがあるからだ。」

 

この手の説明は、単純明快かつ「とてもそれらしさがある」ため、万人がそのバイアスそのものの存在を揺るぎないものだと認識した上で、そのせいでその結果が生じざるを得ないと納得しやすい。

 

ここが案外落とし穴である。

 

バイアスと一口にいっても、人間が先験的に示す反応や知覚の傾向により生じる不可避なものと、明らかに後天的な学習により生じているものは区別されて然るべきではないだろうか?

 

前者は、「錯覚」と同じ類のものである。

 

例として、視覚において発生する錯覚である錯視を取り上げる。

 

 

これはミュラーリヤー錯視というものである。

ご存知の方もいるだろうが、タネを先に明かしておくと、線分自体は上のものも下のものも等しい長さである。

 

もう一度言う。

 

「どちらも長さは等しいのである。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、これだけ強く等しいことを認識した上でご覧になられた方々に問う。

 

 

二本は同じ長さに見えただろうか?

 

 

当然、そんなことはないだろう。

 

何度見直しても下の方が長く感じられたはずである。

 

このように、本人がどれだけ意識上で入念に対策を練ろうが、加えて、答えを知っていようが否応無しに

幾何学、物理学などの観点からみて誤った知覚が生じるのが錯覚である。

 

(まぁ、その誤りというのも、全否定ではないことはこちらの記事で述べたのだが

https://nemlog.nem.social/blog/5689)

 

 

ロックやヒュームなどの経験哲学が主流であった時代であれば、これすらもあくまで「不適切」な経験の産物であり、その見え方もまた新たに経験し直すことにより「適切」な形に矯正することは容易であると結論づけるのであろうが、流石にそれは暴論であろう。

 

どれだけ訓練しようが、先ほどの画像は下の線の方が長く見えてしまうのである。

 

 

 

さて、ここで本題に戻る。

 

認知バイアスの中でも、上記の錯覚ように生得性のもの、生き物としての人間という存在の特徴に端を発しているもの、その影響が強いと思われるものに関しては、歪みをバイアスという説明で片付けたり、そのバイアスがあると考えることにそこまで問題はないのかもしれない。

 

「そう感じるのはもはや仕方ない」

 

という意味で、ある種気楽に扱える部分がある。

 

人々がそう感じること自体は仕方ないのだから、その感覚と異なる知識が共存していても咎められることはない。

 

感覚的には下の線の方が長いと感じながら

 

「でも、これ本当はどっちも同じ長さなんだよね」

 

と答えれば良いのである。

 

 

現実的に錯覚のせいで何らかの弊害が生じていたとしても、その問題提起や介入のあり方はこうならざるを得ないだろう。

その感覚のあり方自体は矯正不可能なのだから。

 

 

しかし、世に溢れるバイアスの多くはそうではないように思える。

 

 

後天的に矯正可能な個別の認知の歪みも錯覚レベルのものと同列に並べ、一絡げにあれもこれもバイアスという属性を付与して「なるべくしてこうなっている」と説明するのは少々乱暴に感じるのだ。

 

多数の情報資源にアクセスし、熟考することはしたくない

つまり

「物を考える上であまり苦労したくない」

という傾向が人間にあるということは理解できるし、それは確かであろう。

 

しかし、そのような傾向に個別の認知の歪みを問答無用で決定付けるほどの錯覚のような影響力はないだろう。

 

例えば、ヒューリスティック的な判断について考える。

 

「ある黒人」の人物像を評価するとしたら、その相手について大して知らなくてもどことなく凶暴な人だとか、犯罪者っぽいとか、そのような評価を行いやすいだろう。

 

後に、その人が実際には大変善良な人間であることを伝え、自分の評価が誤っていたと認識させる。

 

さて、この評価者は

「誤りが生じたのは仕方がない」

という態度を示すかもしれない。

 

これはつまり、経験則から楽して結論を導こうとする傾向から認知の歪みが生じるのは「必然」だということである。

 

では、この歪みはどれだけそのような判断は誤りであるという前情報を与えたり、訓練を行ったりといった対策を取ろうが本当に不可避なものなのか?

 

無論、そんな訳はない。

矯正可能だろう。

 

ここが、どう頑張ろうとある一定のあり方に感じられてしまう錯覚との差異である。

 

 

故に、バイアスと呼ばれる物の大半は、予防なり訓練なりを経れば防げるという意味で、錯覚とは別モノだと捉える必要性があるだろう。

 

 

勿論、多くの人がそれを日々意識して対策を練れる訳ではない以上、俯瞰した社会的な目線においては

 

「バイアスは生じるものだ」

 

と述べざるを得ない時もあるのだが...

 

こと「バイアス」という言葉が浸透し使われる場面において、あまりにも

「そうなるのは仕方がない」

というような意味が強調され過ぎではないだろうか?

 

少なくとも、あなたが実際に何かを行う時に歪みが生じたとして、認知バイアスをその免罪符に使うのは良くない。

 

バイアスを矯正する前に、まずそのバイアスへのバイアスを取り除こう。

 

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Comments from NEMber
物愚者
2018-10-21 21:55:05ID:5357

ヤバイアス

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二億円なんかいらない。
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