connecting...
Google translation for articles :
5 NEMBER donated to you!!

ブロックチェーンと歴史問題 〜真実と事実〜

nem4.25xem (5) 484 13 0

先日、改変不可能な形でパブリックのブロックチェーンに「歴史的事実」が記録されればこれから歴史問題というものは発生しなくなるだろう、という話を小耳に挟んだ。

 

ほんとにそうか?

 

大戦後、大日本帝国に放棄された後の朝鮮半島に先に侵攻したのは東側陣営なのか、はたまた西側なのかということに関して、今のところは東側が先に手を出して西側がそれに応戦し、どんぱちが繰り広げられた末に北緯38度線で落ち着いているという設定が支持されているが、実際のところ真相はわからないようである。

 

確かに、このようなレベルの論争ならばチェーン上に歴史的事実に関する改変不可能な目録が作成されれば水掛け論に終止符を打つことが可能であると思われる。

 

しかし、あくまでわかるのはどちらが先に兵を動かしたかという物理的な運動に関してのみだろう。

仮に、設定通り東側が先に侵攻していたとしても、北朝鮮にそれを肯定するだけの大義名分があったとすれば、結局のところ応戦した薄汚い米帝とそのお仲間である資本主義の犬どもが根本的に悪いということが可能である。

 

つまり、どちらが先かを明らかにしても「問題」はなくならない。

この問題を解決する上で必要なのは、先に動いた方が悪いというための根拠となる、事象より先に存在する規範である。

これなくしては事象はあくまで中性だろう。

 

無論、それは自明として捉えているのかもしれないが、だとしても、事象としての全容が明らかになれば問題は消えるという表現を多用すると前提として必要なその自明が忘れられる恐れがあるように思える。

 

さて、論争の焦点がはっきりとした事象のあり方自体に当てられていれば、そこにおいてそれは一つの意味しか持たないので比較的気楽に考えられるのだが、事象のあり方自体が定まっていたとしてもそれが複数の意味を持ち得るため、受け手によって千差万別に捉えられるという厄介なケースも世の中には多々ある。

 

侵攻の例に関しても、実際どう動いたのかを起点に問うのではなく、双方の認識を起点に問うと、客観的事象として北朝鮮が先に兵を動かしていようと、そしてそのことが今後明らかになろうと、彼ら自身がそう認識していなかった、あるいはこれからもしない可能性が現れる。

 

先述の例における北朝鮮による主張は、あくまで自分たちが先に兵を動かしていたことを認めた上で、あれこれ別の理由をつけて正当化していたが、こちらの場合、問題はより根深いのではないか?

 

芥川の藪の中、黒澤の羅生門のような状態だろう。

いや、あれは皆が嘘つきだったという説を採るならば共有する客観自体は一つの形に収束するのだろうが、現実においてあのような状況が生まれた際は得てして収束しないことが多い。

つまり、現実に関する客観的視点が真の意味で無数に生まれるということだ。

事実は小説より奇なりというが、いやはやごもっともな格言である。

 

こうなると、そもそも客観的事象とは一体何か、それは我々にとってどれほどの、そしてどのような影響力を持つのか、といった話題に踏み込まざるを得なくなる。

 

度々言うように、我々は事象に関して、何語のどの単語や熟語を使おうと客観的に記述することが可能であり、かつその記述はどう表現されていようが論理式に落とし込んだ場合に共通の命題で表せるので事象、言語表現、命題は全て無条件に等価であるという意見は傲慢である。

 

俺は店員に千円を支払った。

 

店員は俺から千円を支払われた。

 

千円は俺から店員に支払われた。

 

俺、店員、千円、支払いという情報を使って、俺の千円→店員という事象自体を客観的に記述することは確かに可能だろう。

 

それぞれ等価と見た場合、以下の図のようになる。

 

 

 

 

加えて、最終的に千円の動きに関する共通の命題として記述できるのだから、俺にとっての千円の移動と店員にとっての千円の移動、その言語表現も無条件にイコールで結ばれることになる。

 

が、少々待ってほしい。

これらの等価性は無条件に保証されるものではない。

結論に至るまでに二つの飛躍を孕んでいる。

 

まず、支払いという現象と俺による言語表現、そして客観的記述の間にある等価の関係性というのは、元々形成されているものではなく、この俺によって一段階ずつ経験的に等価だと見做される過程と、経験から得られた情報を元に演繹的にそれぞれが等価だと見做される過程によって支えられている。

 

 

これを無視しているのが第一の飛躍である。

 

そして、それがあくまで「俺によって」行われているというのも肝である。

俺は何ら抵抗なく三者を等価だと見做せたが、店員はまた違うかもしれない。

 

となると、俺はこの等価の関係性を元に振る舞うにあたって、経験と演繹を経て個人的に納得した後、更に店員との間で推論と経験的な擦り合わせをしなければならないことになる。

 

 

これを見落としていることが第二の飛躍である。

 

これらの能動的な過程を無視するような飛躍がなぜ出現するのかという疑問に関して、私は、別段身構えなくとも普通に生きてさえいれば自然と日常生活を円滑に進めることができるだけの客観的認識が身についてしまうという人間の特徴そのものが原因であると思う。

 

よく言えば、種として優れた能力を持っているからとなるか?

ありふれた幸福ほどありがたみが感じられないとよくいうが、それと似たようなもので、特に力まずとも難なく獲得できるからこそ結果に至るまでの過程を顧みる機会に恵まれないのだろう。

 

かくして、我々は自動かつ先験的に客観の世界を捉えることができているという錯覚に陥りがちなのだが、蓋を開けてみるとその認識の裡には数々の緻密な過程が幾重にも重なって潜んでいる。

客観とはさしずめ、その果てに現れる結晶である。

そして、自動的なものでないからこそ、各人の客観同士がうまく噛み合わない場面にも度々出くわすのだ。

 

ところで、千円は量的性質を持つものなので白黒はっきりしやすいという意味で救いがあるが、これが数によって測れない質的なものになると、俺による三者の納得も困難なものとなるし、店員との深刻な乖離というのも発生しやすいだろう。

 

俺が会計の際に店員に横柄な態度を取られたと感じ、その際に不快感を抱いた行為を詳細に言葉で表し、その状況を客観的に示した「証拠」をもとに抗議するが、当の店員は横柄に振る舞ったつもりが全くなかったとしたら?

あるいは、俺は全く気に留めていなかったのにも関わらず、後ほど店員から深々と謝罪されたとしたら?

 

勿論、前者は生活の知恵に基づき大抵は店員側が平謝りすることでその軋轢が解消されるし、後者も大した問題と見做されることはないのだが、改めて冷静に考えると、客観的に歴史的事実が記述されれば歴史問題など生じないという主張の恐ろしさが浮き彫りになる。

計量可能な事象だけが歴史問題の発端となるわけではないからである。

譲歩無き争いが始まる。

 

そも、客観は我々に何も客観自体のあり様を伝えていないのか?

だとすれば、こういうことになる。

 

 

点線を境に、上部と下部は全く異質かあるいは無関係ということになる。

客観的記述とやらも、俺の頭の中にある認識の一つに過ぎないということになるだろう。

 

更に言えば、レジ前での支払いという事象自体、下部の世界では起きていないのかもしれない。

というか、下部の世界などそもそも存在しないのかも。

 

ならば、俺の内にある等価の関係性および他者のそれとの等価性を獲得する過程における、経験と推論、両者の区別も無意味となる。

経験というのは自分の外に対象があって初めて成り立つものなので、それが存在しないのであれば経験など当然できるわけがなく、とどのつまり全てが推論の産物ということになるだろう。

 

全てが推論による客観とは、なんとバカバカしいものだろうか?

いよいよグロテスクな話になってきた。

この辺りで一度収拾をつけておかないとまずいだろう。

 

事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである、と。

ニーチェはこう言ったが、これはコナンの観過ぎで真実はいつも一つと確信する病に侵されすぎた人間に対して付ける薬だと思う。

さすがに、ここまで言い切っていいかと言われると少々言葉に詰まる。

千円の移動に対する俺的事実と店員的事実の持つ意味が異なる可能性があるという主張と、客観的な真実と個々人の頭の中の事実には共通した部分が全く存在しないので同じ枠で括れるところなどこれっぽっちもありやしない、あるいは客観的世界などそもそも存在しない、というような主張は別物であり、後者のみを声高に叫ぶのもこれまた行き過ぎではないか?

 

真実、事象自体、つまり客観的な世界というのはおそらくある程度は我々が思っているのと近い形で存在すると考えた方が健康であるし、同時に、目下我々が各々相手にすることになる事実というのは解釈の影響を多分に受けるものであるため真実に事実の全てを担う力は無いので、真実が我々にとっての事実そのものにはなり得ないというのが妥当だろう。

 

歴史問題もまた、真実の不透明さから発生するものは確かにあるが、解釈により生まれるものも多々あるので、今後、真実というものが克明に記録されるようになってもなお人類史から歴史問題が消えることはないと思われる。

 

しかしながら、真実とされる情報に触れる機会が増えるということは、各々が多少なりその真実に近似した事実を保持することに繋がるかもしれないし、そうなれば個人同士の認識の調整も今よりは円滑に進むようになると思われるので、問題の減少には繋がるかもしれない。

当然ながら、判断基準が機能するならばの話だが。

 

Why don't you get crypt currency 'nem' by posting your blog article?

nemlog is blog posting service which has donation feature by crypt currency nem.
nemlog was launched to create environment which can be donated nem among NEMbers via blog articles.
Let's get nem by posting good blogs.

Nem prize event is being held frequently, Please join us on this opportunity!

nemlog registration from here
Register
Comments from NEMber
物愚者
2019-03-29 12:06:15ID:91587

>>tom::さん

白黒がハッキリする対象に関しては優秀ですよね。

tom
2019-03-29 10:24:15ID:91468

歴史的な事実はそういういけんや解釈の違いが生まれるので慎重にいかないといけないですよね。


なのでブランドの証明とかに使われるのが一番いいですよね

物愚者
2019-02-27 23:57:12ID:67826

>>マクト::さん
人が書き込むのであれば、そもそも中立性が保証されていないのでここに示した段階よりも以前にそれを疑う必要性があったので、少々早計でした

新井マクト 🦎🦎🦎
2019-02-26 20:09:42ID:66383

ブロックチェーンに刻まれた歴史が事実であるかは判断出来ないと思います。なぜなら人によってそんなものは変わってしまうから。例えば、戦争があって歴史的大勝利だったとブロックチェーンに刻んだとしよう。しかし、一方で侵略された側はどうだろうか?
歴史なんてものは見方を変えてしまえばいくらでも変わってしまうものだ。その時代の背景を読み取って全体の総和として方向性を示しているに過ぎないから。
ただ、史実として多くの情報を残せることは今後の歴史を作る上で役にたつでしょう!
悪意をもって使われないことを祈りたい。

物愚者
2019-02-24 21:56:54ID:64619

>>やそ::さん

>記録されているものは事実かもしれないが、それが正当かどうかは分からない。。。難しいですねー。

あ、正当かどうかというところで気付きました。
記録自体は公平中立な真実である前提で書いてしまいましたが、そもそも、ある人間が刻むのであれば、永遠に改竄されないだけで嘘が記録される可能性もありましたね笑
反省。

やそ
2019-02-24 21:38:02ID:64588

その時代の日記みたいなものが焼かれずに残ると考えれば、検証等には使いみちはあるかもしれませんが。
客観的事実ってなんなんですかねー。

ブロックチェーンに刻めばいろんな問題も解決!と言うところにも、全て同様の話がある気がします。記録されているものは事実かもしれないが、それが正当かどうかは分からない。。。難しいですねー。

YUTO
2019-02-24 20:46:33ID:64533

>>物愚者::さん
わかった!

物愚者
2019-02-24 20:45:14ID:64530

>>YUTO::さん

画像自体はその下の画像から店員の吹き出しとの関連性を抜いたものでした。

物愚者
2019-02-24 20:24:09ID:64504

>>YUTO::さん

ありがとうございます。

NEMber who posted this article

二億円なんかいらない。
15040
0

Why don't you read following articles?