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歴史と歴史学とオカルト

nem2.60xem (3)
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2019-04-10 23:08:46
歴史と歴史学とオカルト

歴史学とは実証科学です。

 

仮説を立て、それを文献や考古学的発掘という材料を元に検証する営みであり、その観点から信頼性と妥当性のある学説が支持されます。

 

しかし、歴史自体ではないですよね。

 

歴史が常に科学のルールに縛られなければならない理由はない。

 

しかし、トロイの木馬が科学的な意味で発見されて以降、歴史が実証性に侵食され始めたようです。

 

叙事詩を物理的な事物と対応する資料と捉えて、それを元に発掘作業を行ったら木馬を発見できた。

ならば当然、聖書にある記述を元に発掘を行なってもそれが指し示す何かがあるはすだ。

 

この段階では健全に歴史を科学しております。

ところが、ここで止まらない。

 

科学が万能であると錯覚されるのは目に見える結果をよく出すからです。

その錯覚が、目に見える具体物を見つけることこそが歴史であるという思い込みに繋がります。

 

実証された対象は歴史的価値があるという認識は、裏を返せば、実証できなかったものは価値が無いということになります。

 

こうして、超自然的な民間伝承などは自然災害や流行り病が置換されたもの「に過ぎない」という捉え方が歴史的に正しいものとされ、伝承自体が持つ「歴史的価値」は取るに足らない集団妄想の痕跡としてゴミ箱に捨てられるようになる。

 

そりゃあまりにも無慈悲じゃございませんか?

 

また、その反動として決まって科学嫌いのラダイトが現れます。

彼らは歴史が実証の対象となること自体が憎いので、歴史学的な考察すら認めないでしょう。

 

かくして、彼らもまた歴史を純粋に神秘的な形でねつ造し、それを全体に広めようとする。

当然、歴史学の領域も侵犯します。

 

そして、それを実証主義者が科学の旗を掲げて叩き潰そうとする。

「真実を歪曲するのはやめろ」と。

まるで、歴史学が唯一の歴史であるかのように。

 

それぞれの領分に基づいて、謙虚に歴史を眺めることはできないものなんですかね?

 

本能寺の変が1582年に起きたことや、その歴史学的な事実関係だけをもって本能寺の変という歴史と交わることは不可能です。

実証とはその程度のものです。

 

同時に、その不十分さを神秘的に拡大させたオカルトを吹聴し、1582年にそこで起きた事実やそれに関する科学的な調査を行う営みを攻撃するのもよくない。

 

藤村新一という考古学者は神の手と呼ばれるために、その功名心からねつ造に手を染めましたが、クッソ不純な正義から発するねつ造はよりタチが悪いのかもしれませんね。

 

彼はその後精神を病みましたが、それはねつ造自体が悪いことである自覚があったからでしょう。

ところが、ねつ造が正義であるならその心配はないですからね。

 

実証性のあるものにだけ歴史を見出す姿勢もまた、それが正義として認識されているのであれば病まない。

だから、何の躊躇もなくオッカムの剃刀を振るうことができます。

 

誰か、オベリスクを召喚できる方はおりませんか?

もしおりましたら、生贄を二体捧げて歴史というフィールドを掃除してください。

 

ゴッドハンドインパクト。

 

Comment
物愚者
物愚者
2019-04-12 14:22:34ID:101414

>>7zoesan::さん

道徳とは行き過ぎとの闘いであるような気もします。

7zoesan
7zoesan
2019-04-11 08:22:21ID:100568

わからないから面白いし、あーだこーだ言えるですよね。
グレイであるとは面白けど悪さにも使われる、やはり道徳心と自分で考える頭は必要かな。

この記事を書いた人
竿と玉。 潰瘍持ちの胃。 そんなに生きることに焦ってどうするんだい?