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[小さなお話]注文の少ない料理店

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注文の少ない料理店に入るのには、少しばかりの勇気がいる。


人生には、一線を越える決断が必要になるときがあるものだが、必要なのが分かっていても、その決断ができないときもある。


進むべきか、退くべきか、合理的に推し量っての完璧な決断など、できるわけがないと分かってはいる。けれども、その一線を越えていくという道を選ばざるをえないときに、人は勇気だけを頼りに見えない未来への一歩を踏み出すことになる。


注文の少ない料理店が、客に勇気を要請するのは、店主にも客にもある種の覚悟というものがなければ、そういう店自体がそもそも存在しえないからだ。


注文の少ない店だって? どうしてそんな店にわざわざ入るのさ。ひと目見ただけで、ああ、これは流行ってないなって分かるのに、よりによってそういう店に入るなんて、相当の変わりもんでしょう、そんなことをわざわざするのは。


つまりあなたは、不思議なことにこの料理店の店主となるという運命を受け入れて異端者の烙印を甘受した上で、さらにその店の窓際の静やかなテーブルに客として腰をかけることによって、店主と客という異端者同士の共犯関係に舌鼓を打つのだ。


ちょっと待ってくれ。オレは好きで異端者になったわけじゃない。オレがあんたたちと違うからと言って、どうしてこんな扱いを受けなきゃならないんだ。


しかし今さらそんな寝言のような言い訳を言ってみたところで、誰も聞くものはいない。


あなたは南国の楽園にあるこの料理店の、どこか裏ぶれた印象の向こう側に、素朴で飾らない雰囲気を感じて惹き寄せられて、思い切ってその店の扉を開いた。そのときに、確かにそこに感じた一抹の禍々しさすらも心地よく思ってしまった瞬間をあなたは思い出さなければならない。そして、現に自分が選んだ道を一歩一歩進んでいくしかないのだ。


さあまずは、開け放たれた窓から入ってくる爽やかな海風に吹かれながら、一杯のよく冷えたハーブティーを味わうことにしよう。今までに口にした覚えのない不思議なその味わいに、奇妙な懐かしさを感じて、あなたは戸惑いながらも子どものころの遠い記憶のひだの間に入り込み、大人の意識があなたの魂を覆い尽くしてしまう前の、光り輝いていたその時代を思い出すことになるのだ。


あの日きみは誰かに手を引かれて、夏草が匂い、ぎらぎらと太陽に照らされる道をゆっくりと歩いていた。


きみの手を握るその人が誰だったのか、もう少しで思い出せそうなのに、その人の大きな手の感触まで思い出せるというのに、その人の顔はきみの記憶の中ですっかりぼやけてしまって、決して像を結んでくれない。


きみはその人の手に引かれるままに、首筋をだらだらと流れ落ちる汗すらも、これから起きる楽しいことの兆しに感じながら、不安もなく、しんどさもなく、ただ静かな真夏の青い空の下、世界には自分たちしかいないかのように、安心しきって、どこへ向かうのかとも考えずに、永遠の夏休みの至福の時間を過ごしていたのだ。


けれども残念なことに、無垢の子どもの限りない夢にも、やがて終わりというものはやってくる。


陽炎の立つ道のはるか遠方に、きみは見なかったことにしたくてたまらない何者かの姿があることに、もうじき気がついてしまうのだ。


そしてきみは知っている。周りのみんなは、存在の影とでもいうべきその遠方の幻を、とっくに実在のものと受け止めて、いつの間にか繰り返しの毎日を送り始めているのだということを。その幻に飲み込まれずに生きていこうとするならば、きみは自分が周りのみんなとは違うという冷酷な事実を、勇気を持って受け入れなければならないのだ。


強い風が吹いて、窓ががたがたと鳴り、あなたは注文の少ない料理店に連れ戻される。


あなたは他に誰もいないその店で、心の奥底への探検を続ける。


注文が少ないからこそ、店主は客の趣向に合わせて、一品一品を手間ひまかけて用意をする。


外見に惑わされず、運よくその店に辿り着いた客は、ほかでは口にすることのできない特別な料理を、一口一口、一瞬一瞬、真剣そのものの面持ちで味わう。そうして料理を味わっているうちに、客の自我は溶け出してしまい、自分が料理人であることを思い出し、店主であることを思い出す。


やがて自分という意識そのものも消え失せて、料理を食べているのか、料理として食べられているのかも分からなくなったときに、あなたは子ども時代の裏側までをも味わい尽くして、光り輝く甘やかな舌触りの奥深くに、魂を縛りつけてしまいかねない苦味や渋みを探り当てて、ついに究極の一歩手前の真実を目の当たりにしていることに気がつくのだ。


あまりにも当たり前で、今までに何度となく繰り返し言われてきた通りの、退屈極まりない秘密の深層に、自分で体験したものにしか知り得ない、かすかではあるが、確かに鮮やかな煌めく色合いを見て取って、あなたは言葉では表しようのない哀しみに飲み込まれながら、歓びに溢れる滂沱の涙の滝となって、自分という存在自体が雪崩れ落ちていくに任せることになる。


影をともなわない光はなく、苦しみをともなわない喜びもない。


あなたは単純至極の結論を胸に、自らが店主となることをはっきりと受け入れ、いつか次の客がやってくる日を夢に見て待ちわびながら、海辺のその店で余生にも似た久遠の時間を過し続ける。


けれどもそれは余生ではなく、それこそがあなたの生まれてきた意味なのだ。自分が異端であることを知り、次なる異端者にその秘められた意味を伝えること。そこには特別な意味などありはしないのだけれども、それを伝え続ける伝言ゲームこそがあなたたちの人生であること。


そう、意味などないからこそ奇妙な尊さを放ち続けるそのゲームこそが、世界を成り立たせる基本原理であることを、あなたは、いつもここで、生きて伝え続けるのだ。


自分に課せられた、不可解ではあるが、どこか笑いを誘うほどによじれた運命にもて遊ばれながら、そしてそれをもて遊びながら、いつ注文されるかも分からない料理の数々を、どこにも存在しない架空の料理店の厨房に一人こもって、今日もあなたは、全身全霊すべての精魂を込めて作り上げていくのだ。


無心に、淡々と、そして情熱的に。希望を捨てて、絶望も捨てて、ただ今だけに集中して。過去を忘れ、明日を思い出しながら、一点の無限の中に今この瞬間だけを見つめ続けて。

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