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佐賀の偉人達の銅像(No.9〜No.12)

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佐賀駅から降りて南の道には、県庁まで繋がる道(中央通り)があります。

その中央通りには、佐賀の偉人の銅像があります。
その銅像を紹介します。
銅像の数が多いので、No.1からNo.12と分けて紹介します。
前回(No1〜No,4)はこちらです!!


今回は、No,9からNo,12までを紹介します。

 

No,9 日本を代表するお菓子メーカーの創業者

 

 

森永太一郎(もりなが たいちろう)


森永製菓の創業者。伊万里市出身。幼少のときから苦労して育ったが、1888(明治21)年の23歳の時に渡米。一端帰国するもすぐに再渡米し、西洋菓子の製法を習得して、1899(明治32)年に帰国。現在の東京都港区虎ノ門付近に、今日の森永製菓の前身となる森永西洋菓子製造所を開設。まだ和菓子が主流の時代に西洋菓子の普及に努めた。
 1914(大正3)年、49歳の時に紙サック入りの「ポケット用ミルクキャラメル」を発売し、爆発的な人気を呼ぶ。日本初のカカオ豆からの一貫製造によるミルクチョコレートをはじめ、飲用ココア、マリービスケットなど数々のロングセラー商品も生み出した。

 

 

江崎利一(えざき りいち)

江崎グリコの創業者。佐賀市出身。37歳の時に、有明海に流れる早津江川河畔で漁師が牡蠣の煮汁を捨てる様子を見て、牡蠣に含まれている栄養素グリコーゲンを使用した栄養菓子の開発を思いつき、その製造に着手。
 1921(大正10)年に佐賀から大阪へ移り、江崎商店を設立。翌年に大阪の三越百貨店で栄養菓子「グリコ」を発売。その後「グリコ」は、大阪道頓堀の戎橋沿いの看板に見られる、両手を上げて走るスポーツランナーのイメージ像と、「ひとつぶ300メートル」のキャッチコピーとともに、キャラメルにおまけを付けたことにより、大人気商品となった。

 

 

No,10 近代医学を礎を築いた医学者

 

 

 

伊東玄朴(いとうげんぼく)

蘭方医。近代医学の祖。神埼出身。16歳で漢方医学を学び、23歳で佐賀の蘭方医島本良順に、翌年、長崎でシーボルトにオランダ医学を学ぶ。1826(文政9)年、江戸に出て、蘭学塾象先堂を開き、門人を育成した。
 1843(天保14)年、佐賀藩主鍋島直正の侍医となり、天然痘予防の種痘の必要性を進言。1849(嘉永2)年、直正は自分の子に種痘をし、江戸にて玄朴は種痘を広めた。蘭方内科医としては初めて幕府奥医師に登用される。1858(安政5)年、玄朴らが神田に設立したお玉ヶ池種痘所は、後に東京大学医学部に発展し、近代医学の礎となった。


相良知安(さがら ちあん)

蘭方医。日本にドイツ医学を導入した医学者。佐賀市出身。藩校「弘道館」から蘭学寮、医学寮で学ぶ。その後、佐倉(現在の千葉県)の「順天堂塾」にて蘭医学を学び、長崎で蘭医ボードインに師事。
 佐賀藩10代藩主鍋島直正の侍医となり、1869(明治2)年、明治政府の「医学校取調御用掛」となり、ドイツ医学を導入。1872(明治5)年、第一大学区医学校(現東京大学医学部)の初代校長となり、「医制略則」を起草。今日にまで続く近代医学制度の基礎を築いた。「相良知安先生記念碑」が、東大医学部附属病院入院棟A玄関前にある。


 

No,11 知的障がい児教育・福祉の先駆者

 

 

石井亮一(いしい りょういち)
日本における知的障害者福祉・教育の創始者、社会事業家。佐賀市出身。立教大学卒業後、勤めていた立教女学校教頭の時に「濃尾大震災」が発生。その震災で発生した孤児となった少女たちを救済するため、1892(明治24)年、東京下谷に「孤女学院」(仮宿舎)を開設。翌年、滝野川村に院舎を建設し、本格的に運営を始める。
 引き取った少女たちのなかに知的障がい児がいたため、知的障がい児教育の必要性を痛感する。この問題は当時日本ではないがしろにされていたため、教育法などを学ぶために渡米。帰国後、同院を「滝乃川学園」に改め、日本初の知的障がい児教育を本格的に始める。妻筆子とともに知的障がい児教育・福祉に生涯を捧げた。

石井筆子(いしい ふでこ)
近代女子教育者。長崎県大村市出身。石井亮一と共に日本初の知的障がい児教育・福祉に努めた。1880(明治13)年、19歳の時にフランス留学し、帰国後、津田塾大学を創立する津田梅子とともに華族女学校の教師となり、その後も女子教育に力を注ぐ。
 同郷の小鹿島果と結婚したが死別。知的障がいがある娘を滝乃川学園に預けた縁で石井亮一と再婚。亮一を献身的に支えながら知的障がい児の保護・教育に努め、その自立を支えた。亮一の死後、1937(昭和12)年、76歳の時に2代目学園長に就任した。

 

 

No,12 大企業へと発展させた実業家

 

 

中富三郎(なかとみ さぶろう

久光兄弟合名会社(後の久光製薬)初代社長。旧姓久光三郎。鳥栖市出身。祖父の久光仁平が1847(弘化4)年に創業した製薬・売薬の家業を継ぎ、1903(明治36)年、佐賀県三養基郡田代村(現鳥栖市)に設立された久光兄弟合名会社の社長に就任。
 「朝日万金膏」(鎮痛消炎貼付剤)や「快復丸」(健胃下剤)などを販売し、国内や海外に販路を伸ばす。1934(昭和9)年、貼り薬「サロンパス」を発売し、久光製薬の礎を築いた。

市村清(いちむら きよし)


リコー三愛グループの創業者。みやき町出身。1929(昭和4)年、理化学研究所(理研)が開発した感光紙の販売代理店を開業。その業績が買われ理化学興業株式会社の感光紙部長に抜擢、1936(昭和⒒)年、感光紙部門を理研感光紙株式会社(後のリコー)として創立。1945(昭和20)年、三愛商事(現三愛)を設立。1950(昭和25)年、二眼レフカメラ「リコーフレックスⅢ」を発売し、国内でカメラ・ブームを巻き起こす。
 1963(昭和38)年、 銀座4丁目交差点に三愛ドリームセンター(三愛ビル)を建設し話題となる。同年、市村記念体育館を佐賀県に寄贈。また、産業分野、学術分野での貢献を表彰する「市村賞」に名を残している。



ここまでで、25体の銅像を紹介しました。
その25体の銅像は8000万円かけて造られたそうです。
ぜひ、佐賀市に来られた人は、銅像を見てはいかがでしょうか!!

 

この記事は、matsunoさんの銅像紹介をしようというイベントの参加記事です。

 

 

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Comments from NEMber
YUTO
2019-06-10 22:23:15ID:124686

>>matsuno@漆黒の::さん
久光製薬の本部が佐賀県鳥栖市(とすし)にあります!!(本社は東京ですが)
意外に、佐賀から大手企業が出ているなと感じました!!

matsuno
2019-06-10 22:14:00ID:124681

久光製薬もですか!
昔お世話になったなあ。

YUTO
2019-06-10 17:57:18ID:124589

>>やそ::さん
佐賀はすごいです!
久光製薬やリコーも佐賀です!

やそ
2019-06-10 17:54:33ID:124587

森永もグリコも佐賀なんだ!!

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