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最終回直前の『さらざんまい』。今回はレオマブ回でしたが幾原監督の新境地を見た感じがします。
今回の話、というかこの作品で一番大事な言葉が燕太の口から出ましたね。
燕太を救うために一樹が尻子玉を抜いて欲しいとケッピに頼んだのを燕太は「自己犠牲なんて馬鹿な真似はやめろ」と言います。
幾原作品では今まで自己犠牲によって愛が貫かれるキャラクターが幾度と登場しましたが、その全てをはっきりと否定しました。
燕太の特徴や一樹を庇う様からは過去作品と同様の「自己犠牲の愛」を表現するキャラクターと思われていましたが、むしろ「自己犠牲の愛を否定するキャラ」として描かれていたのが燕太だったのですね。ここをはっきり描いたことは幾原作品に大きな革命が起きたと言えると思います。
幾原監督はこの作品に随分力を入れているように感じていましたが、これまでの作品とは決定的に違うものを描きたかったことがわかりました。
一方、燕太の対比と考えられるマブはと言いますと、レオのそばにいたいという「欲」のために「愛」を捨てていたことがわかりました。これはユリ熊で言う「スキ」を手放すということと同義でしょう。
「愛」ではなく「欲」を選びレオを苦しめたマブは、それに耐えきれずレオに愛を誓い死んでしまいます。レオに愛を誓って死ぬのも一種の傲慢(=罪)と取れますね。残されるレオのことよりも愛を誓うことで楽になることを選んでしまいました。
この描写は燕太が一樹を庇いながらも「自己犠牲なんて馬鹿だ」と言って自らの命も諦めない様子と、精神世界でカワウソによる欲望の誘惑に打ち勝った様子からも「愛」と「欲」の対比表現となっていると言えますね。
河童の姿もこの二人はそっくりでしたが、そこからもこの二人は意図的に退避表現として扱っていることがわかります。
オスカーワイルドの『幸福な王子』について以前の記事で幾度か言及しましたが、この場合王子のマブは民のために尽くす自己犠牲を表し、王子のために飛ぶ燕の燕太は愛を表していたのかもしれません。
しかしなんと言ってもこの物語で一番辛い立場にいるのは悠ではないかと思います。
マブとレオは互いに愛し合っていたことを最後に確認して思い出も少しずつ忘れていき最後は二人とも「えん」の外側に弾かれることによってある意味落着はしたのかなと思います。また、燕太には生き残るチャンスも与えられました。
それに対し悠は最後に最愛の兄の真意をしれたと思ったらもう二度と会えない、優しい思い出も何もかも残したまま自分だけがこの世界で生き延び取り残されてしまったという地獄を味わいます。まだ中学生の少年が「もう疲れた」と言う姿はあまりにも大人びていて哀しいものでした。
最後には悠が誓(という悠の欲)に誘われてカワウソに飲み込まれてしまいましたが、このまま彼は闇落ちしてしまうのか気になるところです。というか本当に来週で終わってしまうのでしょうか。
今回のエンディングでは鳥の数が一話、影が一人分と数がまた減っていましたが、これは果たして誰のことを意味しているのでしょうか。
燕太の命が救われたことで減ったのだとしたら、残された影は悠という可能性が高いように思います。
それとも従来の幾原作品らしく一樹がなんらかの理由で取り残され他全員は助かるみたいなベターエンドになってしまうのか。
来週には全てがわかるわけですがとても怖いです。
今回この作品の最大の試みは現実とのリンクであったことがわかりました。
マブが消失し「えん」の外側から出てしまったことでこの世からマブの存在、記憶が消えていくという演出は、アニメが始まる以前から投稿されていたレオとマブのTwitterアカウントが消えることでも現実の視聴者にその実感を与えました。フォローして二人の日常を見守っていた視聴者から目に見えて「二人が確かにそこにいた証」が消えていくというのはすごい演出ですね。
幾原監督はこの作品のインタビューで「今はSNSでどこでも誰とでも繋がれる時代になっているが、繋がっていったい僕たちはどうなるのか、繋がった先に何があるのか、それについて考えたかった」というようなことを述べておられましたが、その試みの一つが今回のSNSによる現実世界とのリンクだったのでしょう。
レオとマブがこの世にいた証はなくなってしまいましたが、確かにそこにいたことは視聴者がちゃんと覚えている。それが答えなのではないかと思います。
最終回直前とあって物語の本質や幾原作品の革命を目の当たりにしたような興味深い回でした。残りあと一話になってしまいましたがどんなオチを持ってくるのか楽しみにしたいと思います。
NEMber who posted this article